一休宗純墨跡 二行書「一聲長笛」 図録解説
 臨済宗大徳寺派の僧、一休宗純(1394-1481)は、江戸時代以降、頓智の一休さんの呼称で親しく知られるようになったが、狂雲子の号に象徴されるとおり、後小松天皇の皇胤として生まれたとされるその生涯は、破格であった。6歳で仏門に入った一休は、生来の叡智で周囲を驚かせた。22歳の時、近江堅田の華叟宗曇に参じ、6年間の厳しい修行の後、大悟。華叟が一休の号を与え、印可の書を授けたところ、一休は火中に投じたという。これは一休の「大悟の証は決して一書上に表されるべきものではない」との意思表示で、以後その信念を貫いた。大徳寺は開山・大燈の示寂後、次第に衰微の一途を辿り、応仁の乱の被害も被ったが、華叟宗曇と、その法嗣、養叟宗頤と一休宗純の登場によって復興、隆盛の気運が高まって、寺門は活気を取り戻すことになる。養叟宗頤と一休宗純はともに大徳寺中興の双璧とされるが、伽藍再建と経済的な立ち直りという寺門経営によって大徳寺復興を目指した養叟に対し、一休は、大徳寺の復興は経営ではなく開山・大燈の遺誡、真風を興すことだとし、養叟を辛辣にまた執拗に非難攻撃した。そうすることで、一休は当時の禅宗界の腐敗を痛烈に批判しようとしたのだといわれている。一休は生涯大徳寺の外にあって、野僧という形で自由に発言したため、当時の常識からはその言動が狂人、奇行と見られることが多かったのであろう。81歳の時に大徳寺第四十七世として迎えられたが、入寺即退寺している。俗にあって俗に染まらぬその徳と、また珠光に圜悟克勤の墨跡を与えたことで、以後茶の湯との結びつきも生じたことなどから、大徳寺を代表する僧として、大燈国師に並び称されるほどの人気を博す。南山城・酬恩菴(京田辺)にて88歳で示寂。
 本幅は流れるような草書で書かれた一休の二行書である。水が流溢するが如く爽やかで、墨色の濃淡が抑揚を醸し出し、全体にリズミカルな印象を与えている。「一聲長笛離亭暮/君向瀟湘我向秦」は、中国・晩唐の詩人、鄭谷の「淮上与友人別」からの引用と思われるが、初字が原典とは異なる。明朝別々の方角に旅ゆく友と笛の音に耳を傾けながら盃を酌み交わす惜別の情を詠んでいる。一休にはこの詩情にどこか共感するところがあったと思われる。70代前後の揮毫とされる。下方中央に「一休」の朱文方印を捺す。

関連美術品
32 一休宗純墨跡 二行書「一聲長笛」