俊成三十六人歌合 図録解説
 伏見天皇(1265-1317)は歴代天皇屈指の能書家といわれる。南北朝時代に成立したとされる歴史物語『増鏡』は、伏見帝をして三跡のひとり、藤原行成にも勝ると絶賛、最大限の評価を与えている。もって生まれた才能もあるであろうが、上代様に学び、小野道風などの書を手本に真摯に修練を重ねた結果の、伏見帝の到達点であったといえよう。仮名であれ漢字(真名)であれ、如何ようにも書き分けることができる縦横無尽な筆さばきであったとされる。優雅な、時として雄渾な筆致は、まさに書聖と呼ぶべき能書といえる。その端正な字形と温雅な画点、穏やかで潤いのある書風は、形骸化していた世尊寺流代わり伏見院流として一世を風靡することになった。さらに伏見天皇第六皇子の尊円親王(1298-1356)は、中国・宋元の書風をそこに加えて尊円流(青蓮院流)を興した。それは御家流とも呼ばれ、多くの分派が生まれて近世へと継承されていくことになる。
 11世紀初めに藤原公任が36人の著名な歌人の秀歌を集め編纂したのが『三十六人撰』で、それを後世、藤原俊成(1114-1204)が選び直したのが『俊成三十六人歌合(古三十六人歌合)』である。これはその俊成三十六人歌合を書写したもの。料紙が天藍と地紫藍の打曇りを縦に配して継がれていることから、もとは冊子本であったと考えられている。金銀泥で蝶鳥を描き、三行書で俊成撰の和歌を認める。その伸びやかで穏やかな筆致は、伏見院様の流れに連なる、すぐれた尊円流(青蓮院流)の筆になる書写であるといえよう。巻末に後水尾天皇第十七皇子の尊証親王による延宝2年(1674)7月3日付奥書が記されている。奥書によると、これは尊円親王の真跡で、欠損した部分があり四番から五番にかけて近衛前久と尊純親王が補筆した、となっている。

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