江戸の艶事と食文化―菱川師宣筆「吉原風俗図巻」を中心に
エリック・C・ラス(日本語訳:舘野まりみ)
 近世初期の日本最大の公許遊郭である吉原について語る時、「食べ物」という言葉を最初に思い浮かべる人はまずいないだろう。しかし菱川師宣(1694没)筆「吉原風俗図巻」(作品53)を見ると、そこで饗される洗練された食事は、お得意客たちにとって遊郭での歓楽の一部であったことがわかる。1680年代後期の制作と考えられる本作品は、全長約1,761cm、15図にわたり、色々な意味の肉体的享楽を見せてくれる。師宣は、当時大量に制作した版画や絵入り本には艶事を描写することが多かったが、本図巻ではそれは差し控えている。その代わりに師宣が描いたのは、様々な生鮮食材が運び込まれ、その食材が調理され美しい料理へと姿を変え、待ちわびた客たちのご馳走になっていく様子である。本作品は、当時の大都市で店を構え始めた料理屋、菓子屋、その他食事を提供する色々な店など、食べ物を商品として扱う新しい商売の有り様を記録するに留まらず、食べ物を通して艶事をそれとなくほのめかしたり、吉原で働く女たちの生き様を垣間見せてくれる。
1680年代の日本の食文化
「吉原風俗図巻」は、1680年代の日本の食事文化形成期に描かれた作品である。江戸は、当時すでに日本最大の都市となっており、その約20年後には人口100万人に達し世界一の都市となった。幕府は武士に対して、侍の都である江戸に、一時的または永久的に居住することを義務づけていた。従って、江戸の人口の半分は武士という有り様であった。その結果、江戸の人口の男女比率は不均衡となり、男の数は女の倍になっていた。下級武士は自炊生活をしていたが、そういう男たちが必要としているのは、調理済みの食べ物だということをいち早く見抜き、商売を始める者が現れた註1。安価なうどんや蕎麦は、下級武士や庶民に、軽食や気軽に取れる食事として人気が広まった。1686年(貞享3)、調理に使用する火が大火に繋がることを恐れた幕府は、屋台で蕎麦やうどんを売ることを禁じた。師宣が本作品を制作していた頃、江戸では、うどん屋、菓子屋、鮨屋などの屋台が次々と現れたのである。うどんと菓子は、現在の日本で見られ
るものと大して違いはない。鮨に関しては、19世紀以前は、主に魚を保存するための方法を鮨と呼んでいた。内臓を取り除いた魚に塩をして炊いた米(飯)とともに、数か月、ときには数年間にも及んで、密封した容器に入れ漬け込むのである。時が来て開封すると、魚はゼラチン状になる。これを鮨といい、飯は、大抵は捨てられ食さない。この発酵鮨に対して、今日「江戸前鮨」と呼ばれ親しまれている鮮魚の鮨は、酢飯を使用し、19世紀初頭に江戸で始められたものである註2。1680年代には、吉原からさほど遠くない距離にある浅草の町の商人によって、巻鮨に欠かせない食材が開発された。シート状に平らに薄く伸ばし乾燥させたいわゆる「浅草海苔」である。
 武士を相手に商売を続けてきた商人は、1680年代になる頃にはかなり裕福になっていた。こうした江戸の新富豪たちは、派手な金遣いで武士階級と競うほどであった。普通の野菜でさえ、富裕消費者層のステータスシンボルになることがあった。季節の出始めの野菜・果物・鮮魚などの食材は「走りもの」と呼ばれ、長寿をもたらすと珍重され、高値で買い求められたからである。幕府は、うどん屋や蕎麦屋などを取り締まるだけでなく、野菜・キノコ類・果物の旬の時期を決め、購買できる期間を限定した。この奢侈禁止令は何度も出されたが、効果はあまりなかったようだ註3。※図録p11-p20の先頭部分

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53 吉原風俗図巻 菱川師宣筆