MIHO MUSEUM所蔵
ギリシャ語銘文の刻まれたアケメネス朝時代のトルクについて

ポール・ベルナール(元アフガニスタン考古調査フランス派遣団々長)
稲垣 肇(MIHO MUSEUM学芸員)

 作品33の「ペンダント付トルク」は多色の貴石で象嵌されたアケメネス朝時代のもので、エジプトの宝飾工房1) の作と考えられる、大変珍しいものである。興味深いことに後にこれにギリシャ人が重量を示す銘文を刻んでいるのである。この大型のトルク(直径26 cm)は三つの部分から成り立っている。(a)二つのアヒル頭部のついた襟飾の部分、(b)その前の幅が広く四列に装飾を施した、環の四分の三を占める胸飾の部分、c最後にトルクに蝶番で提げられた矩形のペンダント部分(4.5×6.0 cm)である(48頁参照)。このトルクの象嵌はセパレーションで区切られており、準貴石と有色のガラスが嵌め込まれている。
1. トルクのかたち:アケメネス朝ペルシャとエジプト
 本作品の特徴は第一に、知られるかぎりでのアケメネス朝ペルシャのどのトルクにも類品がないということである。アケメネス朝のトルクと言えば、ペルセポリスの浮彫に見られる大王の宮廷に侍るペルシャの太守やメディア人の着けているものを想起する。これらは大きな固くて丸い首飾であり、二つの種類に分けられる。「謁見の間」アパダナに見られるものは丸い断面をもったもので、2) 稀に捻られたものもある。「三重の門」トリピュロンに見られるものは主に幅広の平らなリボン状のもので、両端が細くなっている。3) 他は等しい幅をもったものである。実物として知られているものは断面が円形で前の部分が開いた環4) であり、その両端は動物意匠で装飾されている。
 言うまでもなく矩形のペンダントの装飾も類例がない。一方で二つのはんだ付けされた部分は互いに大変異なっている。環の四分の三を占める大きな胸飾の部分は、四つの装飾帯で内側から外側へと続いている。(a)小三角形の列、(b)逃げる騎兵とそれを追って弓を引く騎兵の列、c内湾した菱形のフリーズ、(d)各々の中央に銃眼意匠を施した二重の蓮弁の列である。トルクの短い部分、襟飾は管状でその末端に付けられた二つのアヒルの平たい嘴で前の部分にはんだ付けされている。これを着けた場合、その襟飾の部分は髪の毛で隠れて見えなくなり、両端のアヒルの頭が鎖骨の高さに来る。この襟飾の部分は、三角形の帯二列に挟まれた、三日月の上に神霊あるいは王の胸像を載せた意匠を含むメダイオンが24個並ぶフリーズで装飾されている。このメダイオンはペンダントの周りにも見られる。
 この稀有なトルクは唯一の類例をもっている。それはフロレンスのエジプト博物館所蔵、黒い花崗岩で作られたエジプト第27王朝の身分の高い太守の胸像である。5) 胸の上の方に半円形の幅広の板を鎖骨の高さに掛けているが、それは両端をライオン頭部で装飾した管につけられている。この管は人物の耳の後ろに垂れる鬘から突き出ている。G. ボッティはこのトルクはエジプトのものとは共通点がなく、むしろペルセポリスの平らなトルクに近い「純粋なペルシャ」様式に分類されるとしている。しかし本作品は、大きさは異なっているが、このトルクの二つの部分と類似し、しかもペルセポリスのトルクとは間違いなく様式上相違している。また同様に、このトルクの原型の成立にエジプトの要素が全くなかったとは言いがたい。というのは上記の例がペルシャの支配下にあったエジプトの高官のものであったことに加え、本作品には、神霊の表現をもった矩形のペンダントが付けられており、更にこれには明らかにエジプトの伝統的なモザイクガラス技法が使われているということである。このような一つの構成された宝飾品ができる前にエジプトとペルシャの宝飾品が行き来したことが考えられる。ブルックリン博物館所蔵の、アケメネス朝支配下のエジプトの財務長官プタァ・ホテプの像(fig. 1)はペルシャ・エジプト型の衣装をまとい、二つの宝飾品を着けてエジプトとペルシャに従属していることを象徴している。一つは矩形の板でエジプトの典型的なものであり、もう一つはアケメネス朝の大きなトルクで動物の小像・・二頭の向き合う野生山羊がつけられており、大王がその人物を信任した徴に授けたものである(fig. 2)。6)
 エジプトではペンダントを王や神霊を含む儀式の意匠で装飾した。7) 本作品にイラン民族の最高神アフラマズダが表現されているのは偶然ではない。それは王侯の姿を胸像で表し、ここに見られるようにしばしば二対の翼と尾羽をつけている。さし上げた手は、祈りあるいは守護を表すもので、左手には三角形の花を持っている。ペンダントの三辺を囲む16のメダイオンには、三日月の上に出現するアフラマズダと同じ姿勢をとった人物が繰り返し表現され、トルコ石が象嵌されている。この意匠は襟飾の部分にも見られる。
2. 象嵌装飾
 本作品は色付きの石(トルコ石、ラピスラズリ、カーネリアン)や色付きのガラスが、小さい金板のセパレーターあるいは地金を彫りこんで象嵌されている。象嵌の彩色ガラスにはいわゆる「モザイクガラス」8) の技法を使ったものがあり、逃げる歩兵と騎兵のズボンや靴、眼や馬具を表現した馬の頭部、アフラマズダの顔面9) などに極めて微細な表現を可能としている。
 モザイクガラスはエジプトで、特にプトレマイオス期からローマ時代に大きく発達した。ネクタネボ二世(前360〜前343)のナオス(祠堂)の王名にモザイクガラスが使われていることは銘記すべきである。10)
 エジプトの伝統に由来する要素とアケメネス朝の要素が様式や装飾に込められていることは、これがエジプト王の宝飾工房でアケメネス朝の図像に似せて製作され、スーサなどのペルシャ帝国の中心にそれがもたらされたのではないかという仮説を彷彿させる。スーサのダレイオスの宮殿建設及び装飾、11) ペルセポリスのエラム語のタブレット12) などにエジプトの金細工師が導入されたことが分かる。
 アケメネスの金細工師は象嵌技法を頻繁に使った。スーサのアクロポリスで発掘された豪華な墓はアケメネス朝の末期に相当する。13) その副葬品にはこのセパレーターによる象嵌技法をふんだんに使った、トルク、腕輪、イヤリング、様々なビーズなどがあるが、これらに同系の意匠が見られる。この、簡素な装飾ではなく人物や動物が象嵌技法で表されている類例は稀であり、その主なものは、(a)アフラマズダを表した円形のボタン型アプリケ(fig. 3)、14) (b)アルマヴィール(アルメニア)出土の横たわる二羽の鳥をあしらった胸飾、15) cヴァニ(コルチド)由来の二頭のグリフィンと二羽の鳥をあしらった台形の胸飾、16) (d)バクトリア北部のタフティ・サンギーンで発掘された、ドロメダリー種の駱駝を牽く遊牧系の人物をあしらった金の奉納板17) である。
3. ペンダントの図像、東洋人の戦闘場面
 アケメネス朝美術の金工品や貴石彫刻に見られる闘争場面の中で、本作品は5人で構成された場面やその含意の点で卓越している。この場面の中心はすべて東洋人であり、2人の騎兵、追撃するものと追われるものとである。アケメネス朝美術の戦闘場面は通常東洋人とギリシャ人の戦いであり、後者が必然的に敗者とされているのに対し、本作品の主題は頻繁に見られるものではないが、希少ではない。常に北方や東方に遊牧民侵入の脅威をもっていた帝国の状況は、東洋人の間の闘争場面を描いたアケメネス朝美術の図像表現を説明する。
 明らかにこの金細工師は遊牧民とその敵対者の区別を、眼に見える形で(上衣やズボンを)表現することに気を配っている。追撃する者はその上衣の上に鎧を着け、敗走する者と区別されている。その鎧はアケメネス朝特有のもので、背中の部分が高くなってうなじを防御している。18) 左の歩兵はより簡素な鎧を着けており、うなじを防御する部分はついていない。彼らは顎まで覆う丸いものをつけており、これは間違いなくヘルメットを表している。19) 一方、敗走する兵士は遊牧民族の伝統的なバシリクをつけている。それは柔らかいフェルトあるいは皮で作られた、頬とうなじを覆い頭の上が膨らんでいるものである。20) 騎兵の持つ弓はどちらも二重に湾曲した遊牧民のものである。また馬の種類と馬具の違いをも表現する工夫がなされている。勝者の馬の鼻柱は丸い線を描き、アケメネス朝美術に見られるイランの馬の特徴を表している。敗走する騎兵の馬の鼻柱の線は真っ直ぐであり、「アラビア種」の馬21) を表している。ペルセポリスの浮彫にも、王の馬やアナトリアの使節の馬は鼻柱を丸く描かれている22) のに対し、シリア、リビアやトラキアの使節の馬はギリシャ美術で描かれる馬に近く、23) 中央アジアの使節の馬はアラビア種の馬に似ている。24) 本作品のフリーズに描かれた敗走する騎兵を追撃する騎兵の馬は、その尻尾が縛られている。ペンダントの勝者の馬に敷かれた鞍敷はコンマ意匠で縁どりされ、敗走する騎兵の馬は単純な波打つ輪郭の鞍敷となっている。
4. アケメネス朝末期の年代判定とギリシャの影響
 本作品は概ねアケメネス朝末期のものとされているが、これを細部の検討によってより明確にしたい。
 戦闘場面で、右端に見える逃げる歩兵の輪郭に現れた伝統的な表現に反し、前に傾いた体勢はこの追撃の瞬間を捉えている。その後ろに向けられた顔は追い迫る馬上の騎兵をよく見ようとしているのである。これらすべてはアケメネス朝の固い線を破っており、ギリシャの写実の心をもった金細工師の手になることを他にして、説明がつかない。
 ペンダントと胸飾に見られる逃げる騎兵の体勢にも、ギリシャの図像から借用した要素を見ることができる。25) それは追っ手の方を振り向き腕を伸ばす恐怖や哀願の仕草である。事実この仕草はギリシャの図像の中に見出される。ナポリの博物館所蔵のアレクサンダー・モザイクに描かれた、戦車に乗ってダレイオス三世が逃げる場面がそれである。26) しかしこの仕草は西アジアでも、特に新アッシリアの美術で同様の心情を表現するものであった。27) これはエルミタージュ美術館所蔵、アケメネス朝の貴石彫刻にも見られる。28) この西アジアの要素がギリシャに借用されたとしても、本作品はアケメネス朝の要素は少なく、人物は型破りの自然な表現であり、単にギリシャからその様式を借用しただけでは表現し得ないものである。
 従って本作品の様式は前5世紀の終わりから前4世紀初めに位置付けるべきであろう。
5. 工房の所在、スーサか?
 本作品が作られた工房の所在が未だ疑問として残っているが、それは同じMIHO MUSEUMの野生山羊装飾の一対の腕輪と共通点をもっており、29) これらは明らかに、すでに触れたスーサのアケメネス朝時代の墓(fig. 4)から出土した宝飾品に見られるものである。その要素は本作品の胸飾部の中央フリーズに見られる内湾した菱形の意匠である。これはスーサ出土のトルク(fig. 5)30) のライオンの鬣の後ろにも見られる(fig. 6)。31) ここにはどちらもラピスラズリやトルコ石を象嵌し、菱形の中央には鋲が打たれている。32) 三日月の上に乗るアフラマズダの姿を内包するメダイオンの列33) が、スーサ出土の一対のボタン34) と、本作品の襟飾及びペンダントの周りの装飾35) に見られる(fig. 3)。また、このトルクのアヒルの首筋に見られる三角形を重ね合わせた意匠は、スーサのトルク(fig. 6)36) 及びブレスレット(fig. 7)37) のライオンの鬣意匠にも見られる。
 両者の間には職人技と意匠の同一性が見られ、スーサの同じ工房で作られたものであると想定される。
6. 年代、紀元前4世紀前半
 これらの比較が正しければ、これら二つのグループは同時代のものと言うことになる。スーサの墓から出土した副葬品からアラドスのシェケル銀貨38) がみつかったが、これはE. バベロンによって前350〜前332年39) のものとされた。これによってこの埋葬墓と副葬品はアケメネス朝末期、前4世紀の第三四半期に相当することになる。
 従ってスーサの宝飾品と本作品は、前4世紀の初期からアレクサンダー大王の征服までの時期に置くことができる。我々はこの時期の早い方に相当すると考えたい。
7. ギリシャ語銘文
 ペンダントの裏にはギリシャ語でその重さを示す銘文 MN:A:ΔP:ブラックが刻まれていた。MNは「ミナ」を表し、最後の文字の角型のシグマはギリシャ語の数字を表すディガンマ即ち「6」を意味している。40) このことからこれは「1ミナ6ドラクマ」を示している。これには我々は迷わずアッチカの単位を適応すべきであり、ドラクマは4.32グラム、ミナは432グラムに相当する。従ってこの品物の重量は432+26グラム即ち458グラムと記録されているわけである。
 これと現在の実際の重量422.5グラムとの差36グラムは、今は失われている8個の垂飾といくつかの象嵌物の重量に相当すると説明できる。貴金属に書かれた重量の表記はそれ自体の重さを表したもので、いかなる差引や代替を許すものではなかった。それ故、これは一族の宝物や国家の宝蔵の管理に関連していたのである。ギリシャ語の銘文が本作品に刻まれた時点で、これはギリシャ人の手に渡っていたのであり、都市41) あるいは王子のものとなったのであろう。もしこのトルクがイランの宝蔵などに収蔵されていたとすれば、その帝国の使用言語(古ペルシャ語、エラム語、バビロニア語、エジプトのヒエログリフ、司法庁の公用語であったアラーム語など)で書かれていた筈である。このトルクにはこの高価な品物に使うギリシャの銘文があやまたず彫りこまれており、これはオリエントのヘレニズム期のものであると考えられる。42)
8. ギリシャ文字の年代
 銘文の6個の文字は半草書体であり、注意深く観察すれば、年代の判断材料となる。Mの湾曲した形態は前4世紀から前3世紀前半に使われたものである。他の文字は比較的変化がなかった。縦に二つあるいは三つの点を打って区切る書き方は、ギリシャの登録方法であり、異なる品物を登録する時に必要とされた。
 本作品のコロンはそれを使わなければ記述が長くなるところを短くしている。これは、これを刻んだ者が機械的にそのようなコロンを登録リスト作成時に頻繁に使用したことを示している。更に本作品に刻まれた記述は、それを購入した時のものというよりも、ギリシャ人の宝蔵の担当官が収蔵品を検閲する時に付けたものと想像される。従ってこの時期は前325〜前275年(更にその後半)が想定される。この時、Mトルクはある状況におかれ、マケドニアのペルシャ帝国征服時の接収品の一つとなったものであろう。
註:
209-210頁の仏文の註を参照。
Fig. 1
プタァ・ホテプ像
ブルックリン美術館蔵
fig. 2
プタァ・ホテプのペンダント
fig. 3
スーサ出土のボタン型のアプリケ
fig. 4
スーサ・アクロポリス出土
アケメネス朝時代の墓
fig. 5
スーサ出土のトルク
fig. 6
スーサ出土のトルク部分
fig. 7
スーサ出土のブレスレット

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ペンダント付トルク