東福寺開山・聖一国師円爾(1202〜1280)が爾然の安名を与えたのは、三河の瑞境山実相寺3世の無外爾然と思われる。
 爾然は京洛の出身で、円爾に参じた後、入宋、諸知識に歴参し帰朝した。円爾の臨終に際して「正法眼蔵、爾然に付属す」と円爾より遺嘱されてその法を嗣いだ。東福寺山内に正法院を開いて正法院派の派祖となり、普門寺の2世にもなっているが、東福寺の請(しょう)を9度も辞して終に住職とならず、文保2年(1318)11月12日、実相寺の方丈で示寂。正法院に塔され、応通禅師の勅謚(ちょくし)号を受けている。
 世に道号の遺墨は多いが、この時代の安名の遺るものは少なく、わずかに嘉暦2年(1327)の年紀を有する清拙正澄筆の「霊肩」が知られる。しかし円爾が宋僧・無準師範(ぶしゅんしぱん)から与えられた安名(円爾)二幅は東福寺に現存し、重要文化財に指定されている。爾然の安名もその顰(ひそみ)に倣ったものであろうか。
 円爾は駿河安倍郡藁科の出身。幼年にして久能山の尭弁について学び、その一字を受けて弁円と称した。承久元年(1219)、18歳、近江の園城寺で剃髪、東大寺で登壇授戒した。ついで上野(こうずけ)長樂寺の釈円房栄朝、寿福寺の大蠍了心らについて禅と天台を学んだが、嘉禎元年(1235)入宋、径山(きんざん)の無準(ぶしゅん)に参じて禅宗に転じた。その際無準より円爾と安名されるが、円爾はもともと教僧時代の房号(円爾房弁円)であり、転宗に際して房号を法諱に転用したのである。一般に円爾弁円と呼ばれているが、もともと円爾に道号はなく、禅宗転派以後の諱、円爾と、教僧時代の諱、弁円を並べ用いるのは誤りである。無準の印可を得て仁治2年(1241)帰国、随乗房湛慧に招かれて大宰府に崇福寺を、神子栄尊に招かれて肥前に水上山万寿寺を開創、翌仁治3年、豪商・謝国明に外護を得て博多に承天寺を開いて、化を鎮西に振った。寛元元年(1243)上洛して、九条道家の帰依を受けることになる。これより先、嘉禎2年(1236)頃より、道家は京都の東南、東山山麓に奈良の東大寺、興福寺より一字ずつをとって東福寺と名づける寺院建立の志があり、工事を始めていたので、早速円爾を東福寺開山に請じた。初めは教寺としての性格の強かった東福寺も、その開創に円爾が参画することによって、次第に禅を中心とする真言・天台兼修の道場としての形を整えていくことになる。
 多年の歳月をかけて造営装厳された東福寺の大伽藍で、円爾が落慶・開堂の法要を行ったのは、道家発願の年より20年後の建長7年(1255)のことであり、道家没後3年目にあたった。円爾の示寂は弘安3年。世寿は79歳であった。

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