禅宗の宗旨は一箇の燈(ともしび)を次の一箇の燈に移すように、親しく個人から個人へと直接的に授受され、かた一器の水をそのままさらに一器に移してゆくように、師匠から弟子へ、弟子からまたその弟子へと、師匠の持てるしべてを授け、また受け継いでゆく宗派である。
 禅宗がそのような伝燈、法系を尊ぶのは、他宗のように、所依の経典、つまり立宗の根拠となるべき言語化された教理を持たないからであり、仏心をそのまま相続するという師資相承を重視することによるからである。禅宗において初祖・達磨大師が特に尊重される所以であり、また達磨大師号が多く謹書される所以でもあろう。圓覚大師号は、唐の代宗が達磨に勅謚(ちょくし)した大師号である。
 大燈国師宗峰妙超(1282〜1337)は播磨揖保郡の出身。父は紀氏の一族の浦上氏、母
は赤松則村の姉とされる。11歳、書写山円教寺に入って戒信律師の師事、16歳、経律論の三蔵を学んだが、仏教学の限界を知り、17歳で上洛して諸老宿に参問、20歳、鎌倉に下り建長寺にて参禅、23歳、鎌倉万寿寺の高峰顕日の門に投じて正式に出家、妙超と安名された。嘉元2年(1304)のことである。この年、南浦紹明(大応国師)が後宇多上皇の命によって大宰府の崇福寺から上洛した。宗峰はこれを聞いて鎌倉から京都に上り、安井の韜光庵(とうこうあん)の門を叩き南浦の参じた。
 徳治2年(1307)、宗峰26歳、南浦はこの年幕府の招請を受けて鎌倉へ下向、建長寺に入寺、宗峰もこれに従った。翌年南浦の印可を得た宗峰は、南浦の寂後上京、聖胎長養(しょうたいちょうよう)すること20年、嘉暦元年(1326)、紫野に大徳寺を開創、開堂の式を挙げた。大覚寺統の後醍醐天皇から正燈国師号を、持明院統の花園天皇から興禅大燈国師号を特賜され、両朝の帰依を得た。建武4年(1337)8月には花園上皇から、大徳寺は宗峰の法系の人にだけが一流相承すべき旨の置文を賜り、十方住持制をとる五山派とは違った道を歩むことになった。同年12月21日示寂。世寿56歳。嗣法の弟子は多いが、中でも大徳寺を継いだ徹翁義亨(てっとうぎこう)と、妙心寺開山の関山慧玄が知られる。今日の臨済宗は、すべてこの大応・大燈・関山(いわゆる応燈関)の一流の法系で占められている。
 宗峰は中国へは渡っていないが、南浦の師・虚堂智愚の書法や、中峰明本の箒意を受けて、さらに独自の世界を開拓、雄渾無比な墨蹟を数多く遺している。

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