南北朝時代 14世紀 貞治5年(1366)
紙本墨書
縦:28.6cm 横:58.9cm
寂室元光(1290〜1367)は美作高田の人で,若年にして山城三聖寺の無為昭元の門に入り,嘉元2年(1304)落髪受具。その後関東へ下向,相模禅興寺の約翁徳倹に参じ「元光」の安名を得た。徳治2年(1307)約翁の建仁寺住山に際して上洛,ついで建長,南禅にも約翁に随侍した。
元応2年(1320)31歳,入元して中峰明本に参じ,中峰より寂室の道号を授与されている。その後,古林清茂をはじめとする諸尊宿に歴参,嘉暦元年(1326)帰朝した。以来およそ35年,ほとんど備州,作州の間に隠栖,その間美濃の東福寺,甲斐の棲雲寺にも住している。延文5年(1360)71歳のとき,近江守護佐々木氏頼の請に応じ,その翌年近江雪渓の地に永源寺を開創,約翁に嗣法の香を焚いている。幕府より五山官寺(諸山十刹,五山)への招請が続いたがことごとく拒絶し,終生黒衣の平僧で終わっている。貞治6年(1367)9月1日示寂,世寿78歳。臨滅にあたってその会下の解散と,寺院はことごとく村民に与えよと遺嘱している。その清廉な境涯は中峰明本に通ずるものがあり気韻溢るる詩と書は,多くの人びとの愛好するところとなっている。
本書は趙州無字の公案に参じている聞翁侍者のもとめに応じて,寂室元光が与えた法語である。寂室は南宋の仏性法泰の語を引いて,趙州無字の旨訣を説いているが,『続古尊宿語要』中の仏性法泰の語要には,ここに引用されている語は見あたらない。
仏性は先に五祖法演に参じ,後にその法嗣の円悟克勤の法を嗣いでいるので,五祖のことを師翁と親しく呼びかけている。その五祖法演には,趙州の無字を頌した「趙州露刃剱,寒霜光焔焔,更擬問如何,分身成両段」の一偈があって知られるが,仏性はこの偈の句「趙州露刃剱」を会得すれば,無字の境涯に参入しうるとして,「露刃剱」と「数
株の梅花が一夜の狂風に空尽されて,一片も見えざる」景とを比較して,自己の見処を述べている。
寂室がこの法語を書した貞治丙午(5年)は,寂室遷化の前年にあたる。なお,この法語は『永源寂室和尚語録』の下巻に収録されており,聞翁誉侍者に与えられたものであることが知られる。ちなみに,趙州禅師は「喫茶去」の法語で知られ,茶人の景仰するところである。 (加藤)
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