鎌倉時代 13世紀 弘長2年(1262)
紙本墨書
縦:32.7cm 横:42.9cm

大覚禅師蘭渓道隆(1213〜78)は宋国西蜀〓江の人。松源派下の無明慧性の法を嗣ぎ,寛元4年(1246)来朝した。34歳であった。博多の円覚寺,京都・泉涌寺の来迎院などに仮寓し,宝治2年(1248)鎌倉に下り,北条時頼の請に応じて建長寺の開創に参画,同寺開山となった。

この尺牘は東福寺開山聖一国師円爾(1202〜80)に宛てたもので,『聖一国師年譜』の建長元年(1249)の条に「(道)隆与師(円爾)書〓往徠,数数不絶」とあるように,両者の親密な交流がうかがわれるが,事実,本尺牘を含めて蘭渓から円爾宛の尺牘四通(一通は文案)が現存する。尺牘の内容は,夏安居結制の日(4月15日)が迫っているが,まだ東福寺の丈室に到って拝謁していない。これは私個人の懈怠のためではなく,少々事情があったためである。今日より3日後の4月11日,建仁寺に御光臨願い,粗飯を差し上げ,久濶を叙したいと述べている。

火災で衰微した建仁寺の復興を,鎌倉幕府から命ぜられ,東福寺在住のまま建仁寺十世に住山したのが円爾であり,そのあとをうけて同寺十一世となったのが蘭渓である。『大覚禅師語録』によれば,文応元年(1260)に渡来した兀庵普寧を建長寺に迎えてその後に上洛,建仁寺に住山したのが弘長2年(1262)のことであるから,その年の4月9日の尺牘といえる。蘭渓が建仁寺から肥前小城の三間寺の若訥宏弁に送った弘長2年閏7月の尺牘が現存することも,同年の蘭渓建仁入寺を裏づける。蘭渓はそれまで円密の色彩の強かった同寺を,宋朝風の純禅の寺に改めている。建仁寺の「仁」を「寧」とするのは,時の天皇の御諱の一字,仁字を避けたものと伝えられる。蘭渓は南宋の張即之の書風をよくした。 (加藤)

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蘭渓道隆尺牘(東福円爾宛)