菩薩立像 1駆 120.3cm 石灰石製
北魏末から東魏時代(6世紀前半)
像は光背を含めて、頭体のすべて、おそらくは現在欠失している両手前膊部や天衣遊離部も含めて同じ石から刻出していたものと推定される。
この像は側面から見ると首と下腹をやや突き出す、いわゆる「久」字状に立っており、アルカイックスマイルをたたえる口元、下腹部でX字状に交わって膝辺りをめぐる天衣など、一見して北魏時代の龍門石窟で形成された様式を基調としていることが理解される。しかし、大きな円形の頭光、顔面部に見られる写実的な肉付けは、古陽洞や賓陽三洞の像には見られない要素であり、冠や肩飾りの簡素な成形も、肩にかかる二重に折り返した蕨手状の垂髪、中央部に玉状の垂れ飾りのある装飾性豊かな旨飾り、交差部に大きな半球状の飾りを伴う瓔珞、左右への広がりを弱め、左足側面に沿って垂下する天衣なども、ともにこの像がやや後の時代に造られたことを示している。一方、ややつり上がりぎみに上向きの弧を描く上まぶたと、一度下向きに膨らんでから目尻にむかって逆向きの弧を描きながらこれと合流する下まぶたの強い曲線で構成される目は、眉から鼻にかけての鎬立った稜線ともあいまって、たいへん厳しい印象をこの像に与えており、裳に刻まれた比較的幅の狭い平行線状の衣文には、やや崩れてはいるものの、中央から左右対称に品字形衣文が表され、背面ではやはり中央から左右対称に波形の襞が表されている。裳の表現からは下腹部の肉体の微妙な起伏や前面両足部の丸みが感じられる。しかし、これらの衣文表現は、決して立体的な襞の起伏としては表されず、すべて平面的に処理されている。像は左右対称を守る厳格な形式美の下にまとめあげられており、総体として大変荘重な趣を醸し出している。
本像の作風は立像ではないが麦積山石窟台142号窟の右壁交脚菩薩像などの北魏末期の像や、同台27号窟の正壁龕脇侍菩薩像など西魏大統年間(535ー551)の製作と推定されている像などに近い1。しかし、はるかに繊細な肉付けをもっており、浮彫と彩色を併用した大きな円形の光背は、もしも最外部の幅広帯に彩色で唐草の様なものを描いていたと想定し得るならば、山東省博物館所蔵の北魏正光6年(525)銘の石造三尊仏立像の中尊およびフリア美術館の北魏永煕三年(534)銘の釈迦三尊像、藤井有鄰館所蔵の東魏天平2年(535)銘石造三尊仏立像の中尊頭光等と形式が一致しており2、頭光の背面に刻まれた大きめの芯を持つ単弁式二重の見事な蓮華の表現は、中国・諸城県博物館所蔵の東魏武定3年(545)銘の石造三尊仏立像の中尊の頭光に見られる蓮華のそれに近い印象を持っている3。さらに作風的にもヒ゛クトリアアント゛アルハ゛ートミューシ゛アム 所蔵の東魏武定二年(544)銘の仏三尊像に近い4。しかし、松原三郎氏が東魏末から北斉初期の作と推定している諸城県博物館所蔵の金銅三尊菩薩像では、既に裳裾の衣文表現に本像よりも進んだ写実性を示しており、シンシナチィ・アート・ミューシ゛アム(米)所蔵の隋時代と推定される菩薩立像、および松原氏が6世紀の後半と推定しているロサンセ゛ルス・カウンティ・ミューシ゛アム所蔵の石造菩薩立像なども形式的には本像と通ずる点を持ちながら、はるかに自由で写実的な様式を備えている5。これらを勘案すれば、本像の作風は6世紀の前半、北魏末期から東魏時代の始め頃のそれに近いと考えられる。
また、本像の特筆すべき特徴に宝冠正面の蝉形冠飾りがある。このような表現は全く類例を知らない。しかし、中国においては戦国時代に趙の武霊王が胡族の風を取り入れてから、武官がこれを表す冠飾りを着用するようになり、以来皇帝の近臣や高級宦官が清廉、節倹の象徴として冠の前面に蝉の冠飾りを使用するようになったことが判明している6。さらに注目すべきは、北燕時代(409-436)の馮素弗の墓から問題の蝉形冠飾りとともに金製の山形冠飾りが出土しており、歩揺の付いたこの冠飾りの裏面に型押しで仏座像が表されていることである7。このことは本像が製作されたおよそ百年前に、冠飾りの裏に化仏を隠した崇仏の貴人が存在した事を示している。これによれば、化仏のかわりに蝉の冠飾りを付けたこのような菩薩像が、北朝伝統の皇帝即如来王侯即菩薩の思想に則り、崇仏の貴人になぞらえて製作された可能性を示していると考えられる。
さらにボストン美術館所蔵の閻立本筆「帝王図巻」によれば、冕服姿で描かれた帝王7人の内、冠の正面を確認することができる武皇帝劉秀、魏文帝曹丕、呉主孫権、蜀主劉備、晋武帝司馬炎、隋文帝陽堅の6人は、全員蝉の冠飾りを付けていることが確認される8。このことは蝉の冠飾りが帝王にも用いられたことをしめしている。一方「続高僧伝」卷十九の法蔵
|